今まで誕生日おめでとうと言われても何がおめでたいのかさっぱりわからなかった。誕生日がきても一つ歳が増えるという事実をぼんやり認識はするが、ただそれだけのことで特別な感情もわかない。他人については友人でさえそれを意識することはない。家族の場合はからくり時計のバレリーナがANNIVERSARYに合わせて踊りだすので、そうか今日は○○の誕生日だな、と気づき慌ててLINEすることになる。
しかし先日末っ子の子供が生まれた時のことだ。ビデオ通話の後表現できない感覚が胸の奥から波のように起こり押し寄せたのだ。自然に正体不明の涙が流たその時、誕生日とはこういうことなのか、とわかったのだ。
ジジイになって、しかも2人目で、やっと誕生日の意味合いが腑に落ちる。
バカもここまでくると救いようがないと思うが、オレとしては死ぬ前に気付いて良かった。
メタ認知が習慣化されて、いつも別の自分が自分を見て制御しようとしているのが最良のように思ってきたが、オレが統一的になり紛れもないオレ自身となるような感覚は条件が整わないとなかなかやってこない。
これも場の励起だろうか?
一方で、メタ認知どころかまったく自分を省みない連中がマスコミや政界にはゴロゴロいる。オレも反省や後悔はしたことがないが、失敗や理解できない事だらけなのが幸いして、自分の状況把握を念入りにすることが習慣化されている。オレもバカだが彼らよりは幾分マシだ、と思っているがこれは勘違いだろうか?
「感動」には注意が必要、と尊敬する川上未映子さんは言ったが、時にはメタ認知ができなくなるほどの正体不明の心の起こりにどっぷりつかってみたい。






